レッテルをはがしてみよう。映画『しあわせのパン』

ただほのかな笑みをたたえている。
美味そうな食べ物を真上から撮影する。
パンを二つに分けるとほのかに湯気が出る
原田知世の声。

まるでCMのようにコーディングされた“幸せ”が前面に出てくるから気が付きにくいのだが、
この映画は悲しい映画なんだと思う。


とある理由で東京にいられなくなったという妻に旦那が北海道へ行こうと誘って、
二人は北海道で喫茶店を営み、四季を過ごしていく中での4つの客人とのエピソードを積み重ねていく物語

いきなり北海道の田舎で喫茶店じゃ、到底生活できないんじゃないか、
という突っ込みをまるで無視して、ナイスな生活と、パン作り珈琲作りの美しい作業者の姿を映し出す感じ!イラッ

旅行の約束をすっぽかされた女の子、
母親がいなくなった娘、
余命幾ばくもないお婆さん、

どれもよくあることと言えばよくあることだが、
ラベルを張るとすれば、不幸せ。

そうそれはレッテル張りなのだ。
私たちが憎むべきものはレッテル張りなのだ。

原田知世を仮想敵として憎み続けることは簡単だが、
あがた森魚(この人は話さない方が自然な気がする)さんのあるシーンで、
せつないのに、なんだか明るくなって、またせつなくなるのを感じた私は、
そう思っている以上にことはややこしいのではないかと思ったのだ。

それにしたって、
飯の撮り方やフィルムの感じなどの作為的なところにモヤモヤしたくなる人もいると思う。

が、これはレッテル張りからどう距離を取るかというクイズみたいな映画なんじゃないかと思う。

知り合いにあんなカップルがいたら、
「幸せそう」って思ってしまうに決まっている。
二人だけでちょっと僻地で生活をする。海外で暮らす。
「ああ、幸せそう〜」
違うのだ。
むろん、幸せだと思うけれど、それはそういうスタイルが幸せなのではないのだ。
つまり、その知り合いのことを以下に何も知らないか、
ということを寂しく思った方がそれいいに違いないし、
まあ関係ってそんなもんだ。良いも悪いも両方あるのだ。

だから、
この映画に出てくるファッションに気を取られると、
とんでもなくふざけた映画な気がしてくる。
だから、そこはかとなく漂うせつなさ、もしくはその存在を強靭に思い込むことが、
大切なんじゃないかと思う。

その意味で、最後の曲は、
どんなにいい曲に聞こえてもせつないし、
だからと言ってその切なさに浸るばっかじゃ能がないぜ、
ということを感じさせる気もする。

そんな、しあわせのパンの感想。