じわじわくる映画「日輪の遺産」

公式サイトのdescriptionにはこうありました。
http://www.nichirin-movie.jp/

沈まぬ太陽』に継ぐ、日本映画界が放つ矜持!! 8月27日 全国ロードショー、映画「日輪の遺産」公式サイト.


映画をどう楽しむかというのは色々あるのだろうけれど、
近年の爆笑映画ランキングでは
日本沈没」(草なぎ剛版)、「おとうと」(山田洋二)が食い込んでくる。

同じ領域で「ふゆの獣」 もあった。
これは監督は判っていながら、そう作ったという感じなのだけれど。

ハングオーバー」なんかが代表的なものだと思うが、笑いがスクリーンの中にある作品は、
上手にいってれば楽しい。「2012」とかになるとあざとい。

だが、みている人の心の方に色々浮かんでしまう感じ、思い出し笑いに近い奴が浮かぶ作品。

これはやはり印象に強くのこる。

日本沈没は、主人公草なぎくんの妄想ヒーロー夢話と解釈するといきなり輝きだすし、
おとうとは、主人公さゆりさんがサイコで悪意な人と(むしろ僕にはそういうふうにしか見えないが)見ると、美人が如何に恐ろしいかを伝道する映画に見えてくる(というかいいのか!山田洋二とさえ思う。まあ僕の妄想)。

パターンとしては、点として存在する細かな突込みどころが、一つの線を無して、いつしか立体的に立ち上がってくるという、3D解釈の世界なのである。なんか見えてくると幸せになれる。そういう本が昔あったなあ。

目に効く3D絵本―視力がぐんぐんアップ! (主婦の友生活シリーズ)

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で、
日輪の遺産」は、いわゆる大作系の可能性がびんびん感じるやるだった。

観る前は、
数十名の女学生たちを率いて軍人がお宝探しの珍道中を繰り広げる物語かと思っていたが、
実際は、
いわゆる戦争もの、と思いきやファンタジックなお話かと思いきや、空に飛ばないETの自転車みたいな、そういう感じか。

なので、3Dで見えるかと言われると、
浮き上がりそうで浮き上がらない。むしろ3Dの軸となる「つっこみどころ」的なものが、
実は、本道の作品の趣旨に合致している気さえする。
少し戦争映画、戦争もの話というものを寓話化しているようでもあるのだ。



例えば、作品構造でいうと、以下。

現代シーンA
現代シーンB
回想
現代シーンB
回想
現代シーンB
回想=本編(ここがメインで長い)
現代シーンB
回想=本編
現代シーンA
回想=本編
現代シーンB=本編

確かこんなだった。
なんというややこしい。

回想シーンは戦争ものでは良く使われる。
ショッキングなシーン寸前で現代に戻して、
血の付いた手帳か何かを見ながら、言葉少なに涙するみたいな。
タイムトリップを使って、現代とつなげることで、
そのギャップに戦争の過剰さを意識させるとか。
まあある。が、
上はやり過ぎじゃなかろうか。
というかわざとだと思う。


ほかにも、死ぬシーンがとてもいい加減というか、緊張感が無い。
ネタバレだけど、
扉を開けると自決中だったとか、用心棒真っ青の血がぴゅーシーンとか、ピストル自殺シーンとか、無駄に派手。
その割には。死を隠すこともしばしば(どこかで指摘されていたのですがおそらく民間人の死は見せてない)で、
さらにさらにMPなどはやたらすぐにピストルを構えてしまう。

これも戦争映画では特有と言えば特有。
死ぬことの方が当たり前という、日常と逆転したシチュエーションをスクリーンに作りだしてしまうという、
やつ。これも意図だと思う。


主な展開が、
特殊指令を受け、切れ切れのメッセージ(次は○○へ行け。次は服に着替えて○○へ行け、といったやつ。)通りに動いていく軍人3人。その3人が女学生を部下にして、荷物を鉄道貨物車から車に乗せて、車から洞窟奥にしまう。
(荷物は特別兵器で、凄い攻撃力があるという風に女学生たちに伝えられているが、実際は違うし、しまう理由もよくよく考えると謎)
というもの。

この無意味さは、戦中の竹やり訓練やらと同じ主体性はいらない、無意味でもやることに意味がある、的なことを例えているのだろうなと思う。というか劇中で中村シドウさんが説明してくれる。


つまり、戦争ものの違和感みたいなものを詰め込んでいるのだ。
理不尽だ!みたいな話は、筋的にはそういうのは出てくるが、これが実に上手にカタルシスを回避していて盛り上がりを効果的に抑えている、というか多分失敗(むしろ良い点)。各所の違和感が、不思議な世界を作っているのだ。

客観視しながら戦争ものを少しにやにや見ている自分がいるという変な感じ。

「泣かせてくれよ」という想いと共に、没頭でも無い、冷やかでも無い、平たい自分を知らされる。


自分がファンタジーと思っていたのは、
戦争ものあるあるじゃなくて都合良い描かれ方に理由があるのではと睨んでいたのだろう。


だから僕は、
この悲しい話と言えば悲しいムードがあったと思えなくもない作品は、
ニヤニヤ観る為の工夫がされているのではないかと思うのだ。
(もっと安直というか無難な映画なら、死をクライマックスに持ってくるという構成もできたろう)


ただ、これらをツッコミ要素ではなく、
作品全体の相対化の為の工夫であると思うには、
心の力が多少いると思う。
たいがい感動したがり、泣きたがりなのだ。(もしくは僕のように3D映画観たがり)

というところまで達するのに時間がかかりジワジワと今思うわけだ。

説得力とつじつま、
どちらもうす味な映画が一番、僕は遊べる、と思う。




追記
個人的には「基準!」の掛け声は、筋に入れて欲しくなかった。
様式はあるだけで美しく、特別なものだと指をさすと、何かが損なわれる気がする。